LOGIN三日が過ぎた。
その朝、私はいつもより早く目を覚ました。
寝台から起き上がり窓辺に立つと、まだ薄暗い空に星が二つ三つ残っていた。
今日、私は南部の街道へ向かう。深呼吸を一つして、私は身支度を始めた。
「お嬢様。お支度が整いました」
シェラの声に、私は姿見の前に立った。
質素な旅装だった。
宮の紋章もなく装飾もない、ごく普通の商家の娘のような格好。
それが今日の私の姿だった。
「よくお似合いです、お嬢様」
シェラが静かに言った。
その声には、いつもとは違う硬さがあった。
「シェラ」
「――申し訳ございません。少し緊張しております」
「無理もないわ、シェラ」
私は彼女の手をそっと握った。
その手のひらから、彼女の緊張が、直接伝わってくるようだった。
「けれど大丈夫。あなたたちが必ず守ってくれると、信じているから」
シェラはしばらく私を見
男たちが地に伏していた。誰も深手は負っていない。それでも、二度と立ち上がる気力を失うほどには打ちのめされていた。地面に染み込んだ水が、乾いた土を、点々と黒く染めている。「――もう行け、早く」声が再び聞こえた。低く抑えた、覚悟の滲んだ声だった。男たちは我先にと逃げ去っていった。土煙を上げながら遠ざかっていく背中を、私は、しばらく見送っていた。静寂が戻った。あたりに、水しぶきの余韻だけが、微かに漂っていた。私はまだ姿の見えない相手に向かって声をかけた。「――ありがとうございます」沈黙が少しの間続いた。やがて空間がゆっくりと歪み始めた。陽炎のような揺らぎの中から、一人の少年の姿が輪郭を結んでいった。まるで、透明な水面から、静かに浮かび上がってくるようだった。十四、五歳ほどだろうか。細身だが鍛えられているのが分かる身体つきで、銀に近い髪が風に揺れていた。その目が私を、まっすぐに、静かに見た。「――魔王様に、お目にかかれる日が来るとは」声は低く抑えられていた。膝を折り、深く頭を垂れる。「この身に代えても、お守りすると誓います」その姿はまさに忠義の騎士そのものだった。折り目正しい所作の一つひとつに、長年鍛え抜かれた品格が滲んでいた。私は思わず見惚れた。想像していたよりも、ずっと若く律義な人物だった。「あなたが、ネフィリス、なのですね」「――いかにも」彼は顔を上げた。そのとき、遠くから足音が聞こえた。アルヴィス様が駆けつけてきていた。護衛の兵を数名、しっかりと連れて。「ヴィオレット、無事か」その声に、ネフィリスの肩が、はっきりと、びくりと跳ねた。「――あ」その一言だけで、彼の様子が明らかに、そ
三日が過ぎた。その朝、私はいつもより早く目を覚ました。寝台から起き上がり窓辺に立つと、まだ薄暗い空に星が二つ三つ残っていた。今日、私は南部の街道へ向かう。深呼吸を一つして、私は身支度を始めた。「お嬢様。お支度が整いました」シェラの声に、私は姿見の前に立った。質素な旅装だった。宮の紋章もなく装飾もない、ごく普通の商家の娘のような格好。それが今日の私の姿だった。「よくお似合いです、お嬢様」シェラが静かに言った。その声には、いつもとは違う硬さがあった。「シェラ」「――申し訳ございません。少し緊張しております」「無理もないわ、シェラ」私は彼女の手をそっと握った。その手のひらから、彼女の緊張が、直接伝わってくるようだった。「けれど大丈夫。あなたたちが必ず守ってくれると、信じているから」シェラはしばらく私を見つめていた。目の奥に、これまでにない複雑な感情が揺れていた。「――お嬢様は、いつもそうやって、こちらを信じてくださいます」その声には微かな震えがあった。馬車は朝霧の中を、静かに進んだ。御者はゼルの手配した信頼できる者だった。荷台には私一人。護衛は遠く離れた場所に、姿を隠して従っているはずだった。窓の外を流れる景色は、次第に人家の少ない土地へと変わっていった。車輪が石を弾く音だけが、規則正しく続いた。私は、その単調な響きに耳を傾けながら、これから起こることを、頭の中で何度も思い描いていた。想定通りに進むこともあれば、そうでないこともあるだろう。それでも、動き出したこの計画を、途中で止めるつもりはなかった。昼を過ぎた頃、街道の様子が明らかに変わった。行き交う旅人の姿が減り、代わりに遠くの野営地から立ち上る煙が、何本も見えるようになった。民兵の集結地が近い
翌日、シェラとゼルが計画を携えて戻ってきた。応接の間の卓に、地図が広げられる。帝都周辺の街道と、いくつかの村落が細かく書き込まれていた。書き込みの丁寧さから、二人が徹夜で検討を重ねたことが伝わってきた。窓から差し込む朝の光が、地図の上に描かれた無数の線を、くっきりと浮かび上がらせていた。「――お待たせいたしました」シェラが深く一礼した。「囮となる場所と時機について、ゼルと共に検討いたしました」私は身を乗り出した。「聞かせて」「まず前提から」ゼルが地図の上に指を置いた。「あの方が動くのは、魔王様に危険が及んだとき、あるいはそう見える状況が生まれたときです。過去の事件は、すべてその条件に沿っております」「つまり、わたくしが本当に危険な場所へ向かえばいい」「ええ。ですが」ゼルは私を見た。「本当に危険であってはなりません。あくまで彼がそう錯覚する状況を作る必要がございます」「具体的には」私が問うと、シェラが地図の一点を指した。「南部国境近く、この街道です。民兵の集結地から、さほど遠くありません」「そんなところへ行けと」「護衛は最小限に見せます。実際には離れた場所に、殿下と精鋭を配置し、いつでも駆けつけられるようにいたします」「危険を演出する、ということね」「はい」シェラははっきりと頷いた。「街道を供の少ない馬車で通ります。民兵に近い場所を、あえて選びます。彼がこれまでの行動パターン通りであれば、必ず気づくはずです」私は地図をじっと見つめた。羊皮紙の上に描かれた街道の線が、今、自分が実際に歩む道になろうとしていた。「もし気づかなかったら」「その場合は、別の手を考えます」ゼルが静かに答えた。「ですが、わたくしの分析では可能性は高いと見ております。あの方はこれまでも、魔王様の動向を常に把
軍議から二日が過ぎた。その間にも、南部国境の民兵はさらに数を増していた。ガイル様の報告によれば、既に三千を超えているという。宮の空気は、目に見えて張り詰めていた。侍女たちの足音も心なしか慌ただしく、廊下ですれ違う文官たちの表情にも、以前にはなかった硬さが滲んでいた。私は自室の窓辺で、その報告書を何度も読み返していた。紙の端が、指の熱で、わずかに湿り気を帯びていた。何度読んでも、書かれている数字は変わらない。それでも、私は、その数字の向こうにある何かを、見落としていないか確かめずにはいられなかった。先手を打つべきか。待つべきか。シェラの言葉も、アルヴィス様の言葉も、どちらも間違っていなかった。答えの出ない問いを前に、ただ立ち尽くしているだけでは何も変わらない。ゼルの言葉が耳の奥で蘇った。時間は無限にはない。私はふと気づいた。この膠着を生んでいるものは何だろう。民兵の集結。それは教会の敵意そのものだ。けれど、その敵意をこれほどまでに深めているのは。失踪。暴露。略奪。すべて、ネフィリスの独断が引き金になっている。もし彼が動くたびに教会がこちらを疑い、そのたびに緊張が積み重なっているのだとしたら。彼を止めることは、ただ一人を止めることではない。この、二つに引き裂かれた選択肢そのものを変える可能性がある。私はその考えに思い至った瞬間、はっきりと悟った。見つけられないなら待つしかない。これまで、そう思っていた。けれど本当にそうだろうか。見つけられないのではなく、彼が見つかりたくないだけなら。彼が出てきたくなる状況を、こちらから作ればいい。私は立ち上がった。窓の外、夕暮れの光が庭を橙色に染めていた。雲の輪郭が、燃えるような赤
翌朝、緊急の軍議が招集された。大広間ではなく、地図の広げられた作戦室に限られた顔ぶれが集まっていた。アルヴィス様、私、シェラ、ガイル様、そして軍務を預かる将官が数名。壁に掛けられた大陸地図には、南部国境を示す赤い印が、いくつも書き加えられていた。灯りとりの窓から差し込む朝の光さえ、いつもより硬い印象を室内に与えていた。「南部国境の民兵、その数、さらに増えております」将官の一人が地図の一点を指しながら報告した。「現時点で、およそ二千。武装の質から見て正規の教会軍ではなく、志願兵と思われますが」「二千という数字は」アルヴィス様が問うた。「国境の守備隊だけでは支えきれません。増援が必要かと」シェラが静かに、けれどはっきりと口を開いた。「殿下。増援だけでは後手に回るだけでございます」「シェラ、それは」私が言いかけると、彼女は続けた。「今、動いているのは、あくまで民兵です。正規軍ではございません。今のうちに、こちらから、その集結地を叩けば、被害を最小限に抑えられます」作戦室に緊張が走った。将官たちの視線が、シェラと私の間を、忙しなく行き来した。「先手を、打てと」私が問うと、シェラはまっすぐに私を見た。「はい」「けれど、それでは」「お嬢様」シェラの声に、これまでにない強さがあった。「相手が本格的に攻め込んでからでは遅うございます。今叩けば犠牲は少なく済みます。待てば、それだけ犠牲は増えていきます」「ガイル、お前の見解は」アルヴィス様が問うた。「――シェラ殿に、同意いたします」ガイル様は苦しげに答えた。「軍事的合理性から言えば、先制するのが最も損害の少ない選択です。感情論を挟む余地はございません」私は拳を強く握った。爪が、手のひらに食い込むのが分かった。「わたくしたちが先
ゼルの分析から、三日が過ぎた。その間、新たな事件は起きなかった。まるで嵐の前の静けさのようだった。宮の日常は、表面上、いつもと変わらず流れていた。庭の花は咲き誇り、廊下を行き交う侍女たちの足取りも軽やかだった。私はその沈黙を、不気味に感じていた。何も起きないことが、かえって、次に来るものの大きさを予感させた。夜、眠りにつく前、決まって、あの見えない気配のことを考えてしまう自分がいた。「殿下。教会より、正式な書状が届きました」朝議の場でガイル様が、緊張した面持ちで一通の書状を差し出した。封蝋には聖教会の紋章が、深く鮮やかに刻まれていた。アルヴィス様がそれを開いた。読み進めるにつれて、彼の表情が次第に硬くなっていく。「――何と」「教会は正式に、帝国を非難する立場を取るとのことだ」彼は書状を円卓の上に置いた。「一連の事件を、帝国による組織的な工作と断定している」私は思わず立ち上がった。「わたくしたちは、何もしていません」「分かっている」アルヴィス様の声は静かだったが、その奥に抑えた怒りがあった。「だが教会にとっては証拠など不要だ。都合の良い物語があれば、それで十分なのだろう」「具体的には、どのような」私が問うと、ガイル様が書状の続きを読み上げた。「聖教会は、アーデルハイド王国、南方の複数の国々に対し、帝国との通商を見直すよう正式に要請している。また」彼は一拍置いた。「聖女ミナ様の名において、帝国を『闇に満ちた国』と断ずる神託が下されたと、布告されております」朝議の間に、重い沈黙が落ちた。円卓を囲む閣僚たちの誰もが、言葉を失っているようだった。「神託」私はその言葉を繰り返した。舌の上で転がすように、何度も。それが、あまりに現実味を欠いた言葉に思えたからだった。「ミナが、